「お前、視座低いぞ」。この一言を役員にぶつけたことがある社長は、きっと少なくないと思う。戦略会議で社長と役員の意見が噛み合わず、意思決定がずるずる遅れていく。社長は口には出さないけれど、心の中では「なんでそんな部分最適な話しかできないんだ」と思っていたりする。
僕はこの「視座が低い」という言葉をよく使っている。あまり好きじゃない。使う側にとって都合が良すぎる言葉だから、ついつい使ってしまうのだけど。20年以上経営をやっていると、「視座が違う」としか言いようのない瞬間に何度も出くわすのも事実ある。
今回は、経営者にとっては便利な言葉、一方で社員さんにとっては厄介な言葉の正体について、僕なりの考えを書いてみたい。
「経営者目線を持て」というアドバイスの、ズルさについて
まず断っておきたいのは、「視座を上げろ」という言葉には、たしかにズルい一面があるということだ。サイボウズ式に掲載されている日野瑛太郎さんのコラムに、新卒時代に上司から「経営者目線を持って仕事をしよう」と言われて猛烈に腹が立った、というエピソードが書かれている。従業員が経営者目線で考えたところで、待遇が経営者並みになるわけでも、本当の意味で経営に関与できるわけでもない。それなのに高いコミットメントだけを求められる。この指摘は、なるほどその通りだと思う。
僕自身、昔から「普通」という言葉に馴染みがなかった。実家は陶芸家で、子供の頃から工場で土をこねて遊んでいた。スーツを着て毎朝同じ時間に出社する暮らしに憧れたことは一度もない(正確にはスーツを着て、「いってきます」と出かける大人がどこで何をしているのか子どもの頃の僕には想像できなかった)。だから「もっと会社目線で考えろ」というような、型にはめようとする言葉には、人一倍身構えてしまう癖はある。
それでも僕は、「視座」という概念そのものを否定する気にはなれないし、むしろ好きだ。なぜなら、視座の違いは実際に存在するし、それが原因で会社が前に進まなくなる場面を、経営者として何度も見てきたからだ。お客様のプロジェクトに関わって、客観的に視座の違いから生じる問題を目にすることも少なくない。
問題は「視座を上げろ」という命令の出し方にあるのであって、視座という概念そのものが悪者なわけではない。ここを混同すると、話がおかしな方向に進んでしまう。
視座は役職の高さでは決まらない。「任され方」で決まる
数年前、こんな経験をした。取引先の協力会社に、新卒3年目の社員がいたのだが、その人と話していて衝撃を受けた。判断のスピードも、話す内容の解像度も、まるで経営幹部のようだったのだ。理由を聞くと、こう返ってきた。「うちには『新卒を舐めない』文化があるんです。やり方とゴールだけ渡されて、あとは『できるよね』と背中を押される」。
この一言で、僕は自分の会社を内省することになった。うちは新卒に対して、丁寧に教えすぎていたんじゃないか。手順を細かく渡し、失敗しないように先回りし、結果的に「言われたことをやる人」を量産していたんじゃないか、と。
ここで僕が言いたい持論はこうだ。視座の高さは、年次や役職では決まらない。どれだけの裁量とゴールを渡されているかで決まる。 3年目の若手が経営幹部のような視座を持てたのは、才能ではなく、任され方の設計がそうなっていたからだ。逆に言えば、役員クラスであっても「決めていいのはここまで」と枠を細かく区切られ続けていれば、視座はいつまでも上がらない。「視座が低いな」と部下や役員を評する社長は、その前に「自分がどこまで裁量を渡しているか」を一度振り返ったほうがいい。これは正直、耳の痛い話だと思う。僕自身にも刺さる話だ。
ただし、その若手の方曰く、「多くの人がついてこれずに辞めていきますよ。厳しいですから。」とのことだった。「ライオンの子育てじゃないけど、崖から突き落とすような社員教育ですからね。」と表現していたのが印象的だった。
ポートフォリオ思考とは、「全部を天秤にかける」覚悟のことだ
「ポートフォリオ思考」という言葉がある。この言葉、聞き慣れない人も多いと思うので、一般的な定義に加えて、視座の文脈に即した僕なりの定義をしておきたい。ポートフォリオ思考とは、目の前の一案件の是非だけでなく、複数の選択肢・複数の事業・複数のリソース配分を同時に天秤にかけて、限られた資源をどこに張るかを判断する力 のこと。
PHP研究所が公開している「経営的視座」に関する記事では、経営的視座の特徴として「全体最適のスタンス」「3〜10年といった長期的な発想」「多角的な情報収集」の3つが挙げられている。まさにその通りだと思う一方で、僕はこの説明だけだとまだ抽象的すぎると感じる。全体最適という言葉は聞こえがいいが、実務では「Aの部門の成功のために、Bの部門にあえてブレーキをかける」というような、誰かに嫌われる判断を伴う。ポートフォリオ思考とは、要するに「全員にいい顔をするのをやめる覚悟」のことだ、とも言える。
この覚悟を持てと言われて、いきなり持てる人はいない。だからこそ、経営側が小さな範囲からでも「天秤にかける経験」を渡していく必要がある。一つの部署の予算配分を任せてみる、複数の候補から一つを選ばせてみる。そういう小さな「ポートフォリオ判断」の積み重ねでしか、この筋肉は育たないと僕は思っている。
視座が違う二人が、経営を回せる理由
うちの会社は10年ほど前に社長交代をしていて、今は創業者である僕が会長、そしてもう一人が社長として経営にあたっている。この二人、実は意思決定のスタイルがまるで違う。僕は何もないところから仕組みや概念を作る「0→1」が得意なタイプで、社長は出来上がった型を磨き上げ、大きく回していく「1→N」が得意なタイプだ。
正直、視座という物差し一本で二人を測ろうとすると、どちらが「高い」かなんて決められない。0→1型の視座と、1→N型の視座は、そもそも見ている景色の種類が違うのだ。大事なのは、どちらが優れているかを競うことではなく、この違いを経営チームの中でどう組み合わせるかだと僕は考えている。もし僕と社長が同じタイプの視座しか持っていなかったら、うちの会社はとっくに何かで詰まっていたと思う。
「お前、視座低いな」という一言は、たいてい「お前は俺と同じ景色を見ろ」という意味で使われている。でも本当に必要なのは、同じ景色を見させることではなく、違う景色を見ている者同士が、それぞれの見え方を正直に言葉にできる関係をつくることだ。ここを履き違えると、社長の視座に無理やり合わせようとする、金太郎飴のような組織が出来上がってしまう。
「視座を上げろ」ではなく、「先に裁量を渡せ」
視座が低いと感じたら、まずやるべきは説教ではなく、裁量の再設計。ゴールだけを渡し、途中のやり方は本人に委ねる。天秤にかける経験を、小さな範囲から意図的に渡していく。それを続けた先にしか、経営者が期待する「視座の高さ」は生まれない。
これは正直、経営者にとって都合の悪い結論でもある。「視座が低い」と誰かのせいにしているほうが、自分の設計ミスと向き合うよりずっと楽だからだ。でも、フィリピンで子会社を運営していても、日本で新卒採用をしていても、僕が痛感するのはいつもこれだ。人は与えられた裁量の分だけしか、景色を見ようとしない。
役員や社員に「もっと視座を上げろ」とは、もうあまり言わない方が良いのかも知れない・・・代わりに「これ、どこまで自分で決めていいと思う?」という確認をした方が良さそうだ。この問いに対する答えが小さいままなら(僕が期待するものと違うのなら)、それは相手の視座が低いのではなく、僕がまだ十分な裁量を渡せていない、というサインなのだと思っている。
視座は、生まれ持った資質でも、役職が自動的に与えてくれるギフトでもない。任され方という設計図次第で、誰にでも広げていけるものだ。もし今、社内の誰かに対して「視座が低いな」と感じている経営者がいるなら、その人を責める前に、自分がどこまでの天秤を渡しているかを、一度棚卸ししてみてほしい。うちも、その棚卸しをずっと繰り返している最中の会社だ。
組織の中では人それぞれに役割がある。高い視座を持った人にしか出来ない役割というのもある。その高い視座の人間が、わざわざ低い視座に合わせにいく必要はないと思う。それよりも、視座相応の役割設計ができているか?と考えることが重要だ。
Pinagmulan ng sanggunian/sipiサイボウズ式「『経営者目線を持て』と言われて、腹が立った話──この厄介な言葉と、どう向き合うべきか」(日野瑛太郎、2024年4月9日) PHP人材開発「リーダーに必要な『経営的視座』とは? 3つの特徴と近づくための方法を紹介」(的場正晃、2024年10月17日更新)