「広告費をもっとかければ売れるはずだ」「値引きしないと選んでもらえない」。経営者やマーケティング責任者の方とお話ししていると、こうした悩みによく行き当たります。しかし実際には、広告費や値引きといった短期施策に頼るほど、「それがなければ選ばれない状態」に陥ってしまうケースを、私はいくつも見てきました。今日は、ある象徴的な事例をきっかけに、私たちが「ブランド」というものをどう捉えているかをお話ししたいと思います。
2002年、ネスレ日本でキットカットのマーケティングを担当していた高岡浩三氏(のちの同社社長)は、テレビCMを全面的に中止するという決断をしています。当時、キットカットには年間20億円以上の広告費が投じられていたにもかかわらず、利益率はわずか2〜3%にとどまっていました。高岡氏は「広告をゼロにすれば、むしろ利益は改善するのではないか」という仮説を立てたそうです。
そこで着目したのが、消費者の中ですでに生まれていた「特別な意味」でした。九州では、「きっと勝つとぉ」という方言とキットカットの語感が似ていることから、受験生の間でキットカットをお守りのように捉える動きが自然に生まれていました。ネスレはこの現象を捉え、受験生を応援するブランドとして、その意味を広げていきます。テレビの前で一方的にメッセージを届けるのではなく、受験という生活の文脈の中にブランドが入り込んでいったのです。テレビの前で待つ広告ではなく、生活の文脈の中に入り込み、自然な口コミを生む仕掛けです。結果として、キットカットは単なるチョコレートから、「受験生を応援するブランド」という独自のポジションを築き、その売上は5倍、利益は10倍にまで拡大したと言われています。
私たちはブランディングを生業にしている立場上、この話を聞いたとき、単に「良い成功事例だ」で終わらせることができませんでした。なぜなら、この意思決定の本質は「広告をやめる勇気」ではなく、「広告に頼らなくても選ばれる状態を、意図的につくりにいった」ことにあると考えているからです。
ブランドが弱い企業ほど、値下げやキャンペーンといった短期施策に頼りがちになる、というのは多くのマーケティングの現場で語られる傾向です。逆に強いブランドは、価格競争そのものを回避し、「価値で選ばれる状態」をつくることができます。広告は本来、そうした価値を伝えるための手段のひとつに過ぎません。手段であるはずの広告費の多寡が、いつの間にか「売れるかどうか」を左右する主役になってしまっている企業を、私は数多く見てきました。
私たちは、ブランドを「特定の誰かにとって、特別な存在であること」と定義しています。そしてブランディングとは、その状態に向けて意図的に印象を構築し続けるプロセスだと捉えています。この定義に立つと、「広告に頼らず売れる商品」というのは特別な現象ではなく、「広告によって選ぶ理由をつくり続けなくても、顧客の中に『このブランドを選びたい理由』が蓄積されている状態」だと言い換えることができます。キットカットのケースも、受験生にとって「きっと勝つ」お守りのような特別な意味を持つようになったことで、マス広告だけに頼らないブランドの広がり方が生まれた、と読み解くことができるはずです。
つまり、「広告に頼らないブランディング」とは、広告をやめる技術ではありません。顧客にとっての「特別な意味」を先に定義し、その意味が伝わる接点だけに絞って資源を投じるという、順序の問題です。広告費や値引き幅を先にいじるのではなく、まず「誰にとっての、どんな特別な存在か」を定義する。この順序を間違えないことが、遠回りに見えて最も再現性の高いアプローチだと私たちは考えています。
「値引きしないと選ばれない」という悩みも、構造としては広告依存とよく似ています。値引きは短期的には効果が出やすいため、一度使うと繰り返し使いたくなる誘惑があります。しかし値引きを重ねるほど、顧客の頭の中で「この会社は価格で選ぶものだ」という位置づけが強まり、結果として値引きなしでは選ばれにくくなるリスクがあります。これは私が経営者としても、支援先の企業を見てきた立場としても、繰り返し目にしてきた負のスパイラルです。
一方で、値引きに頼らず選ばれ続けている会社には共通点があります。それは、価格以外の判断軸を顧客の中に明確に持ってもらえていることです。「安いから」ではなく「ここに頼みたいから」「この会社の考え方に共感するから」という理由で選ばれている状態は、偶然生まれるものではありません。私たちが日々の案件で最初に取り組むのも、まさにこの「価格以外の判断軸」をお客様と一緒に言語化する作業です。
私たちが実際に見てきた事例でも、値引きをしない方針を貫きながら地域トップクラスの売上を維持する専門店がある一方、低価格帯へ不用意にブランドを拡張したことで、それまで築いてきたブランドイメージとの齟齬が生じたケースもあります。「値引きしない選択」が結果的にブランドを強くした例は少なくありません。共通しているのは、値引きの代わりに「接客の質」や「体験の質」といった、価格には還元できない価値を磨き続けている点です。中堅・中小企業にとって、これは大企業のような広告予算がなくても十分に再現可能な戦い方だと私は考えています。
私自身、デザイナーとして活動していた約20年前から、不思議に感じていたことがあります。A案・B案と複数の案を並べなくても、1つの提案がそのまま採用されることが多かったのです。のちにビジネススクールの卒業論文でこの理由を分析したところ、決め手はデザインの技術力ではなく、「ヒアリングの質」にあることが分かりました。目的と現在地を正確に把握できていれば、解くべき課題は自然と浮かび上がり、解決策もおのずと導かれる。これが、私たちが「LHメソッド」と呼んでいるフレームワークの出発点です。
この構造は、高岡氏がキットカットで行った意思決定とも重なります。闇雲に広告量を増やすのではなく、「なぜ利益率が上がらないのか」という現在地を正確に見極め、「広告をゼロにすれば利益は改善するはずだ」という一つの仮説にたどり着いた。複数の施策を並行してばらまくのではなく、筋の良い仮説を一つ持ち、そこに資源を集中させる。広告予算の多さでも、提案書の枚数の多さでもなく、「現在地の解像度」こそが、結果を左右する変数なのだと私は考えています。
私たちの現場でも、これと似た場面によく出会います。プロジェクトの途中でお客様の要望が変わり、予算の都合で当初重要だと定義した要素を削ろうとされることがあります。そうしたとき、私たちは必ず「その変更は、最初に描いた目的に合っていますか」と問い直すようにしています。目的達成に不可欠だと判断すれば、たとえ手間が増えても遠慮なく差し戻す。結果として「やっぱり変えなくてよかった」と言っていただけることが少なくありません。広告量や提案の数を増やすことよりも、最初に定めた「目的」に何度でも立ち返ることの方が、遠回りに見えて実は最短距離なのだと、こうしたやり取りのたびに実感します。
もし「広告費をどれだけ増やすか」「どこまで値引きに応じるか」で頭を悩ませているなら、一度立ち止まって問い直してほしい質問があります。それは「自社は、誰にとって、どんな特別な存在なのか」という問いです。この問いに具体的な答えを持てている企業は、価格や広告量という土俵で戦う必要がなくなります。逆にこの問いに答えられないまま広告費や値引き幅を調整し続けると、いくら手段を尽くしても、根本的な状況は変わりません。
私たちがブランディングの案件で最初に行うのも、提案ではなく、この問いに向き合うためのヒアリングです。「こうありたい姿」と「今の自分たち」を可視化し、その間にあるギャップを構造的に整理する。表面的な課題の奥にある、本当に解くべき問いを見つけ出すところから、すべてが始まると考えています。
広告費を増やすことも、値引きに応じることも、いずれも即効性のある対症療法です。しかし根本的に売上や利益を左右しているのは、「特定の誰かにとって、特別な存在になれているかどうか」という、もっと本質的な資産の有無だと私は考えています。キットカットが広告をやめて売上を5倍に伸ばした背景には、派手な戦略以上に、顧客にとっての「特別な意味」を丁寧に見極めた地道な仮説検証がありました。
もし自社の広告費や値引き幅について悩んでいるなら、その前に「私たちは、誰にとって、どんな特別な存在なのか」を問い直してみてください。答えがすぐに出ないとしたら、それこそが最初に向き合うべき本当の課題です。私たちが20年間、経営者やキーパーソンへのヒアリングを重ねてたどり着いたのも、結局はこの一点でした。遠回りに見えるこの問いこそが、実は最短の答えにつながっている。そう確信しているからこそ、私たちはどんな案件でも、提案より先に「現在地を確かめる対話」から始めるようにしています。